こちらは、琵琶サークル琵沙門の創設18年記念誌に寄せたものです。
薩摩琵琶発祥の地、鹿児島県日置市の中島常楽園を訪れたレポートとなります。
1 はじめに
平成26年4月に私は薩摩琵琶発祥の地とされる鹿児島県日置市吹上町にある中島常楽院跡地を訪れました。そのレポートをお送りします。
この薩摩琵琶発祥の地は前々から耳には挟んでおり、訪れたいとは思っていたのですが大学在学中は九州に来る機会もなく願いは叶わないままでした。
しかし、この年になって仕事帰りにふと手にした津軽三味線をテーマにした漫画「ましろのおと」の4巻を読んだ際に、津軽三味線部の部員達が津軽三味線発祥の地を訪れるシーンを読んで、ますますこの地を訪れたいと思うようになりました。
「ましろのおと」のシーンでは、顧問の先生が部員を津軽三味線の発祥の地に連れて行き、黎明期に門付け芸人として寒風吹きすさぶ中で弾いた先人に畏敬の念を持ちなさい、と語ります。
今琵琶サークル琵沙門で皆さんが練習している琵琶は鶴田流をベースにしておりますので、流派の発祥自体は東京になります。でも、薩摩地方の盲僧琵琶や薩摩琵琶(正派)から錦心流・錦琵琶と派生したうえでバトンが鶴田流に繋がって、現在の琵沙門の皆さんまでバトンが渡されたのですから、やはりその発祥の地を一度訪れて、創設者・初代幹事長として一つ御礼申し上げねばと思った次第でありました。
などと思っておりましたら、幸運なことに出張で鹿児島県を訪れる機会がありまして、何とか一泊二日の予定を組めそうだったので、是非とも行こうと計画をしました。
さて、ここでレポートに入る前に薩摩琵琶の歴史を少しだけ予習しておきましょう。
2 琵琶の歴史について
まず、ここに薩摩琵琶の歴史は昨今において研究が進められており、従来の説と新しい説とに大きく分かれております。
3 従来の説について
従来の説は田辺尚雄氏の『日本琵琶楽体系』の解説に拠ります。
従来の説によると琵琶は楽琵琶が属する第1の系統と、盲僧琵琶・平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶が属する第2の系統に分かれます。
琵琶の起源は第1系統も第2系統も、古代ペルシャに起こったバルバットと称された楽器となります。それが紀元前2世紀頃の中ごろに漢に伝わり、管弦合奏の形態となりました。それが奈良朝の初め頃に日本に伝わり、楽琵琶として雅楽の管弦の一員として用いられております。第1系統の琵琶は楽器の頚部が後方へ直角に折れ曲がっているため曲頸琵琶といわれます。
第2系統は、バルバットが紀元後2世紀頃にインドに伝わり、インド古来の弦楽器ヴィナと融合してインド琵琶となります。それらは中央アジアの亀茲を経て中国に伝わり、亀茲琵琶ともいわれます。この種の楽器は頚部が直立しているため直頸琵琶といわれます。
また、インド琵琶は盲僧によって中国を経て奈良朝時代に九州に伝来しました。これが盲僧琵琶となり、平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶はその流れを汲むものとなります。
もっとも、平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶は外形を楽琵琶に象っているため曲頸琵琶となっておりますが、奏法は直頸琵琶のものとされます。
そして、奈良朝の末から平安朝初期にかけて、筑前博多に玄清という名僧が出て筑前盲僧の基を開きます。その門弟である満正院が京都に移り、天台宗に属して京都盲僧を保持していたものですが、その京都盲僧の宝山検校が源頼朝の命により島津忠久に従って建久七年・西暦1196年に薩摩に移り常楽院を建立したことから、薩摩盲僧の系統となり、代々島津家の保護の下に継続することになります。
その後、室町時代に薩摩の島津忠良(日新公)が、16世紀に盲僧淵脇寿長院とともに、武士の士気を鼓舞する目的で、教訓的な内容の歌詞による「琵琶歌」を作ったのが薩摩琵琶の起源とされております。
以上となります。
4 新しい説について
次に新しい説について説明致します。
新しい説は薦田治子氏の『日本の伝統芸能講座―音楽』(第17章「琵琶楽の流れ、薩摩琵琶、筑前琵琶、現代へ」)を基にさせて頂きます。
本説に拠ると、正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶のように後世に受け継がれなかったものを除き、日本にもたらされた琵琶は楽琵琶のみであり、平家琵琶・盲僧琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶はいずれも楽琵琶から派生した形態であると説明されます。
古代に伝来した楽琵琶が、西暦1000年頃までに、民間の盲人音楽家の手にわたり、琵琶法師として活動することになります。彼らは平家物語を語って活躍したので、平家琵琶と呼ばれるようになります。
16世紀頃に三味線が日本に伝来すると、琵琶法師たちは三味線を手にするようになりますが、その興行権をめぐって琵琶法師のグループである「座」の間で争いが起きるようになります。
延宝2年(西暦1674年)に、京都を中心に全国的な組織を作っていた当道座が九州地方の琵琶法師座との争いに勝ったことから、三味線禁止令が出され、九州地方の琵琶法師座は三味線を手にすることができなくなります。そこでやむなく、ノンフレットで音の高さを自由に出せる三味線のように、琵琶の音高に幅を持たせるために、平家琵琶の柱を高くする等の改造を行います。この改造によって、柱間の押し込みによって音高に幅を持たせることができることになります。
この改造された平家琵琶をもって、地神経や荒神経などを読んで宗教活動をしたのが盲僧琵琶の基となるようです。
また、この改造を機に盲僧琵琶は晴眼者たちも演奏するようになり、その後武家風の薩摩琵琶歌が作られるようになっていくようです。楽器としての薩摩琵琶の成立は更に時代が下がり、19世紀初頭から約30年間の間に現在のような薩摩琵琶の形ができあがったとされます。
5 私見
上記の2説につき僭越ながら見を述べさせていただきます。
まず、従来の説によると楽琵琶とそれ以外の琵琶は大きく系列が違うことになりますが、平家琵琶と楽琵琶とに、柱の数や大きさに多少の違いがあるにせよ、ほとんど構造的な違いがないとことへの説明が難しいのではないかと思います。
また、構造的に曲頸琵琶である盲僧琵琶・平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶を直頸琵琶の系列と説明したうえで、構造を楽琵琶に象ったからとすることもやや無理があるのではないかと思います。そうだとすれば、古い時代の盲僧琵琶について直頸琵琶に近い形式のものや、その移行期のものがあっても不思議ではありませんが、そのような移行期の琵琶というものは(私の勉強不足によるものかもしれませんが)まだ見つかっておりません。
楽器において基となる形(祖形)は、どのような過程を経ても、一部は残るのではないかと思われます。
他方、我が国に根付いた琵琶は全て楽琵琶を起点とする新しい説は、曲頸琵琶の分布からも自然ですし、
楽琵琶・平家琵琶と異なり、盲僧琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶の柱が高いことの理由付けもなされていて、
より説得であると考えます。
4 従来の説における常楽院について
従来の説によると、楽琵琶とそれ以外の琵琶とは全く違うルートで日本に入ったことになり、かつ、その祖先は曲頸琵琶と直頸琵琶と大きく系統が異なることになります。
また、九州の盲僧は奈良朝の末から平安朝初期の段階で筑前盲僧が開かれており、薩摩盲僧についても鎌倉時代初期には起こったことになります。
そして、常楽院の住職である淵脇寿長院と島津忠良が、薩摩盲僧琵琶を基に薩摩琵琶を開発したことから、常楽院が薩摩琵琶発祥の地とされております。
4 新しい説における常楽院について
新しい説においては、日本に根付いた琵琶は曲頸琵琶のみであり、楽琵琶が全ての琵琶の祖となったことになります。そして、延宝2年の三味線禁止令が決定的な役割を果たし、三味線が使えないといういわば「消極的な理由」から琵琶の改造に繋がったとしています。
新しい説によると、平家琵琶(≒楽琵琶)の改革は延宝2年(1675年)の禁止令をきっかけにしますので、建久七年(1196年)の宝山検校による常楽院設立についても淵脇寿長院(16世紀)についても薩摩琵琶の発祥とするには時代を異にします。
もっとも、ここからは私の個人的かつ推測的な考えとなりますが、
新しい説に立ったとしても常楽院が薩摩琵琶の発祥に関して何らかの役割を担ったものと考えることができるのではないかと思います。
すなわち、常楽院に残っている盲僧琵琶からも平家琵琶からの改良の過程が認められますし、常楽院が島津家の保護を受け代々の住職が琵琶を演奏していました。
とすれば、禁止令後の琵琶の改良についても、直接改良に携わった住職がいたかもしれませんし、少なくとも常楽院が薩摩地方の琵琶界のサロン的役割ないし精神的支柱となるなどして一定程度の役割を果たしたのではないかと考えられます。
また、これは歴史的事実とは別の観点からの意義となりますが、少なくとも幕末から明治期にかけて活躍した薩摩琵琶の演奏家や、彼らによって広まった全国の琵琶愛好家にとっては、「島津忠良・淵脇寿長院らの手による常楽院における薩摩琵琶発祥」とは、ある意味では「真実」だったわけです。そのような受け止め方を長くされ続けてきた地、という意味ではやはり常楽院には重要な意義があるように思います。
5 解説について
さて、少しだけ復習するつもりが長々とした記載となってしまいました。正直に述べれば、実は上記の新しい説についてはこの記事を書くにあたって勉強したことであって、常楽院を訪れた際には従来の説しか知りませんでした(偉そうに解説してすみません)。
ですので、常楽院を訪れても、従来の説に則って「あぁ!ここがまさに薩摩琵琶発祥の地だ!」と大きく感激できたわけなのです(笑)。今回は記事を書くにあたっていろいろと調べた際に、各説があることがわかって、つい説明のボリュームが多くなってしまいました。
なお、上記の各説についての記載も私の不勉強とさまざまな制約ゆえにいろいろと間違いがあるかもしれませんが、その点はご容赦のうえ、差し支えなければご指摘いただけますと幸甚に存じます。
6 出発にあたって
出発にあたりまして、実は一泊二日の予定で前乗りをする予定だったのですが、直前に都合が変わり日帰りにすることになり、この時点で常楽院に行くことはほぼ諦めておりました。
平成26年4月の羽田の早朝便に乗り込みまして、鹿児島空港から鹿児島市内へ乗り継ぎ、午前中に仕事を終え、また市内中心部に戻ります。ここで佐賀県で琵琶奏者をしている琵沙門三代目幹事長北原香菜子さんに電話をして琵琶にゆかりのある料亭のお勧めを教えてもらい昼食へ行くことにしました。
紹介してもらったのは郷土料理屋熊襲亭 (くまそてい)。入り口には薩摩琵琶が飾っておりました。「おぉ、琵琶だ。」と思ったのですが、特に食事中に琵琶演奏があるということはなく、芋焼酎を頂きながら美味しい郷土料理を楽しみました。
美味しい薩摩郷土料理
店頭に飾られている薩摩琵琶
後ろはNHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の写真
若かりし鹿賀丈司がかっこいい。
7 仙巌園へ
次に訪れたのが島津家第19代当主であった島津光久が造園した仙巌園へ。門には第17代当主島津義弘の甲冑が飾られております。従来の説の薩摩琵琶の祖である島津忠良は、島津義弘の祖父にあたります。仙巌園では特に琵琶に関する資料等に出会うことはなかったのですが、この仙巌園でも往時には薩摩琵琶がたくさん演奏されたのだと想像しながら周りました。
7 ようやく常楽院へ
そして、本当はこれで当初に予約していた飛行機の時間が来るのですが、やはり物足りない。薩摩琵琶の本場に来てこのまま帰るのは忍びないということで、万障繰り合わせて飛行機を最終便に変えて常楽院跡へ向かいました。
なかなかに遠いです。鹿児島中央駅から路線バスで谷山・伊作経由に乗りまして、東本町のバス停で降ります。そこまでおよそ1時間。ここからバス亭そばのタクシー乗り場からタクシーで15分ほどかかります。もっと近いバス亭もあるらしいのですがタクシーがつかまらないので、東本町のバス亭がよいようです。
途中に案内があり、大合奏形式で琵琶を弾いている様子が見えます。
看板の記載は以下のとおりです。
「建久7年(1196)島津忠良は宝山検校を伴って薩摩に下ったと伝えられる。検校は天台宗常楽院(京都)の19代住職で島津氏の祈とう僧として本尊妙音天を捧持しこの地に常楽院を建立した。ここは昔、湖であったが検校の祈とうで水が枯れて平地になったと伝えられている。検校をはじめ歴代の住職は各地で島津氏の威徳高揚につとめ琵琶を吟弾して仏法を広めた。このとき弾奏された琵琶が後年薩摩琵琶に発展していったものである。今でも毎年10月12日に県内外から僧侶が集まり妙音十二楽を演奏する。」
奥にいよいよ薩摩琵琶の聖地が。
新しい建物と古い建物があります。奥の建物で毎年10月12日に「妙音十二楽」という琵琶・太鼓・笛・ほら貝等の8種の楽器によって合奏する古典音楽が演奏されるといいます。この写真を見る限り、この合奏形式には楽琵琶の影響も多くあるのではと思います。演奏を聴くと、楽琵琶から盲僧琵琶への変遷の過程のヒントがつかめるかもしれません。これは是非とも演奏会のある日に再度来てみたいですね。
先に進みますと、像が何体か会った後に、ありました。薩摩琵琶発祥の地を示す石碑が!この石碑に会いに東京から来たのです。
奥にいきますと検校・歴代住職らの墓石がありましたので合掌。現代の琵琶まで脈々とバトンを渡してくれた先輩たちに感謝の念を込めました。
この検校・歴代住職が琵琶の改造に手をつけて頂けなかったら(従来の説と新しい説では、その役割の程度に差があるにせよ)、もっと素朴な形の琵琶のままだったでしょう。また、語りの内容についても宗教色の強いままだったと思われます。
もちろん、それはそれとして古式ゆかしい魅力があるのでしょう。
しかし!小林正樹監督の映画「切腹」や「怪談」の琵琶を初めて聴いて衝撃を受けた私としては、今の形まで琵琶バトンを繋いでくれていなければ、おそらく琵琶を始めていなかったと思います。そう思うと、大先輩達に自然と頭が下がってきました。
ちなみに、上の私が写っている写真は全てここまで乗せてくれたタクシーの運転手の方に撮っていただきました。見ている間も、また呼ぶと大変だろうからとずっと待ってくれました。そして何度も「こんなところに来るなんて酔狂な人だねぇ」と言われましたが(笑)。
8 終わりに
帰りは急いでタクシーに乗ってバス停に戻り、鹿児島空港行きのバスに乗ってぎりぎり最終の東京行きに間に合うことができました。
この常楽院跡自体は本当に何もないようなところで、かつ鹿児島市中心地からも距離があるので、観光で訪れるのであれば妙音十二楽の演奏が行われる十月に合わせて来ることをお勧めします。私も妙音十二楽を聴いた際にまたレポートを寄せたいと思っております。
このレポートを読んで、少しでも発祥の地(…かもしれない地)で琵琶を弾いていた先人達に思いを馳せて、自分の琵琶に少しでもプラスになるように何かを掴んでいただけると幸いです。