明智左馬之助秀満
先日クラブハウスで
今年の琵琶楽コンクールでは
『湖水乗切り』でエントリーした人が多いらしい、と
(他の流派だと「湖水渡り」とも)
わかった範囲で三人
左馬之助も琵琶湖を渡り切ったと思ったら振り出しに戻るので
大変そうな笑。
私はコロナ禍を縁起良く乗り切って欲しいと思ってたので、
思うところは一緒でしょうか。
そんな明智左馬之助、
渡る時に何を考えていたか
まず出自は、実はよくわかってない
光秀の従兄弟とも、娘婿とも、親族関係はない、とも
従兄弟説は、光秀の父の弟、明智光安の子という。
娘婿説だと、
左馬之助は備前の三宅氏の出自で、光秀の娘倫(さと)を娶ったとも。
大河「麒麟が来る」や、司馬遼太郎の「国盗り物語」では従兄弟説
加藤廣「明智左馬之助の恋」では娘婿説
ここで近年指摘されてるのが
明智姓がほかの家臣にも与えられてること、
どうやら光秀は姓を褒章の意味で家臣に与えていたらしい、と。
光秀は明智光秀として知られてますが
40代から惟任(これとう)と名乗っており、
有力な家臣に明智姓を与えていた
これは信長でいうところの茶器ですね。
領土や禄は有限なので、褒章を他の物に切り替えることは
洋の東西を問わず行われてますが
光秀にとっては姓だった、とも。
なので、特に親族関係なく明智姓を名乗っていたとも考えられる。
ここは、私は家臣説を採りたい、
従兄弟のために、舅のために、
というよりも、主君光秀のため、の方が
気持ちとして純粋だと思う。
次に本能寺の計画を知らされたときの行動、
左馬之助と斎藤利三の二人に明かした、とも
ほかに二人の家臣がいた、とも。
果たして左馬之助は
止めたのか、乗ったのか、
光秀が長宗我部氏のために起った、とあれば(四国説)
長宗我部氏の姻族である斎藤利三が本能寺の変をけしかけたのですが、
私としては野望説を採りたい
信長は天下が欲しかった、秀吉も天下を欲しかった、
そして光秀も天下が欲しかった
としても、
左馬之助に政局がわからないはずはない、
本当に頼れるのは、細川藤孝か、筒井順慶か、、、
手薄い、(実際に両者とも光秀側に付かず)
となれば、いかにすばやく「次の天下人が光秀だ」と知らしめて、
親信長派を取り込み、朝廷工作を成功させるか、
以上の政局を考慮すれば、
おそらく反対しただろう、
少なくとも信長の下にいれば、プレゼンスは失いつつあっても、
それなりの禄高で家臣を維持できたので。
しかし、
これは逆算ですが、
もし光秀が天下をとるなら、今しかない、
秀吉や柴田勝家ほか有力家臣が離れており
かつ、信長と信忠が僅かな手勢で京にいる。
そんな軍事的空白は二度と訪れない。
また、左馬之助は
光秀からの告白を受けて、
自分はともかく他の家臣が
万が一に信長に内通することもありえる。
となれば討つしかない
となれば、成功させねばならない
ということで本能寺の変では第一陣を務める
が、不覚にも信長の首を取れなかった
これは信忠の首も同じ、二人とも首がないのは痛い。
信長生存説を許したことで
諸国の参集が鈍ることに、
これは左馬之助の指揮の誤りというより、
信長が一枚も二枚も上手だったということか。
優秀な家臣と、天下の英雄の差でしょうか、
そして本能寺の変後に、
光秀と共に安土城へ向かう、
が、ここで琵琶湖の要所、瀬田橋を越えねばならないところを
瀬田城主、山岡景隆が瀬田橋を焼き切る、と。
昨年見つかった文書「山岡景以舎系図」では
https://www.chunichi.co.jp/article/69303
この際に左馬之助と山岡氏で船戦があった、とあり
これが湖水渡りの元ネタになった可能性がある。
講談では、
安土城→坂本城の湖水渡りですが、
史実だと
本能寺の変後の→安土城の船戦
時期も矢印も違いますが、
湖水渡りが俄に真実味を帯びてきたのが嬉しい。
光秀軍勢は瀬田橋を焼かれたことで
補修などで安土城入りが3日はロスする、手痛い
ここでも、
もし山岡氏が光秀側についてたら、
安土城をもっと早く開城できていたら、がある。
しかし、瀬田城主レベルに、
「光秀は天下取りの器ではない」と見切られているところに
光秀の哀しみが。
そのあとに、
山崎の戦いで光秀敗戦
坂本城へ向かうところで、落武者狩りに遭う。
光秀の敗戦を知った左馬之助は
主君と落ち合うべく坂本城へ
ここで講談のなかでは琵琶湖を渡る
ここで大事なのが
光秀の死を知っていたか、知らなかったか、
おそらくは、知らなかっただろう。
ネットも電話もない時代ですから、
敗走は知っていたが、
おそらくは厳しいだろう、が生きていて欲しい、
という思いの中で左馬之助も坂本城へ向かう、
(客観的な目線では、既に光秀は亡くなっている)
そして、
左馬之助の頭の中は、主君光秀だけでは無く
むしろ坂本城にいる明智家臣団と
そして左馬之助の家族だったのではないか
信長の首を取れなかった失敗や
山岡景隆との船戦で手こずったことの後悔と
そもそも光秀の計画を止められなかった後悔もよぎっていたのではないか、
だからこそ
なんとしてでも坂本城に入り
山崎の戦いの敗戦を伝え、
できる限りの明智勢を逃し、
せめての再興の路を残したかったのでは。
あと大事なのが
その先の自分の未来ですよね。
秀吉が本気を出せば
坂本城で籠城できるはずもなし、
開城の条件として少なくとも自身は死なねばなるまい、と。
そうなると、
琵琶湖は命がけで渡るといっても
自分の命ではない。
走れメロス的なところですね。
伝えるために渡った、
その獅子奮迅が
琵琶湖を愛馬と渡ったという伝説になったのでは。
後世になると、
ご存知のとおり、光秀は裏切り者として
日本史上の一番のヒールとなる。
『麒麟が来る』で再評価の流れはありましたが、
それでもヒールですよね。
平清盛、木曾義仲、頼朝、吉良上野介、徳川綱吉
まぁ、光秀を越えるヒールではない。
江戸時代には、庶民の間で家系図作りが流行ったそうですが、
明智家だけは誰も望まなかった、と。
しかし、明智家の中でも
左馬之助人気だけは別で、
主君を思い琵琶湖を渡ったヒーローとして語り継がれる
ここからは本当に眉唾ですが、
坂本龍馬は左馬之助の子孫という説があり
坂本家の家紋が桔梗であることも、
坂本の由来が坂本城だということも言われており、
チンギスハーンが義経だった、ぐらいの説ですが、
でも、そんな噂が成立することが
左馬之助人気を裏付ける
戦国のヒーローから幕末のヒーローへのバトンタッチで少し楽しいですね。
そんな左馬之助、
さて今日も乗っ切ろう