琵琶楽コンクールに準優勝となったので、
NHK・FMラジオの収録と相成りました。
『邦楽のひととき』
11月24日(水)午前11時20分
再放送11月25日(木)午前5時20分~
スマートフォンアプリ・「らじるらじる」で1週間聴けますので、
おそらくそちらが一番聴きやすいかもしれません。
ここから曲解説となります。
曲の背景、「本能寺の変」の考察や明智左馬之助秀満(曲中は光俊)の歴史などは
今までの記事で何度か取り上げておりますので詳しくはそちらなのですが、
・琵琶曲『湖水乗切り』の考察 その1 「本能寺の変」の各説紹介
https://biwa-souyama.hateblo.jp/entry/2021/08/01/103437
・琵琶曲『湖水乗切り』の考察 その2 明智左馬之助秀満の人物像
https://biwa-souyama.hateblo.jp/entry/2021/08/09/173941
・琵琶曲『湖水乗切り』の考察 その3 朝倉家客分時代と謡い出し(イントロ)
https://biwa-souyama.hateblo.jp/entry/2021/09/07/111341
この曲は本能寺のあった年
本能寺の変で明智光秀が織田信長・信雄を討ち取ったのが天正十年(1582年)の旧暦6月2日(今の6月21日)
光秀と左馬之助は瀬田橋を通って信長の居城であった安土城に向かうのですが、
このときに瀬田城の城主山岡景隆と舟戦があったことが、昨年見つかった文書「山岡景以舎系図」で裏付けられました。
秀満が琵琶湖を渡ったとする伝説も、このときの海戦が下敷きになっているのかもしれません。
もし瀬田での戦いが元ネタとなれば、
山﨑の合戦のあとに安土城から坂本城に向かうときの逃走ではなく、
本能寺の変のあとに安土城へ天下人として向かう凱旋となります。
ずいぶんと趣が違う作品になりますね。
備中(岡山県)で城攻めをしていた羽柴秀吉が「本能寺の変」を知って、毛利氏と講和をまとめて急いで京に戻ります。いわゆる「中国大返し」ですね。
この中国大返しがあまりにも速いので、小説では「秀吉は本能寺の変を知っていたのでは」「光秀と連携していて裏切ったのでは」なんて推察されたりもしています。その点は「その1」で詳しく書いています。
急ピッチで戻ってきた秀吉軍と明智軍が戦うのが「山﨑の戦い」6月13日
このときの戦いでは「天下分け目の天王山」や「洞ヶ峠を決め込む」といった成句が生まれました。
安土城を守っていた左馬之助が光秀敗走を知り、
軍勢を整えるために坂本城へ向かいます。
それを迎え撃つのが秀吉軍勢の堀秀政
堀秀政としては左馬之助が坂本城に向かうのを阻止せねばならない。
坂本城は城主不在のママ陥落させたいのです。
左馬之助は何としてでも坂本城に辿り着かねばならない。光秀が落ち延びて坂本城で合流できるかもしれない。坂本城には明智軍勢が残っているので、そこで立て直せば勝負にはなる。
決死の覚悟で、手勢僅か300名で向かう左馬之助
対する堀秀正は1万、
瀬田橋を越えるところで包囲された左馬之助が、活路を見出すために琵琶湖を泳ぎ渡った、とされています。
もちろんといいますか、
これは後に講談や書籍で脚色されたお話で、
史実には左馬之助の湖水渡りを裏付ける史料はありません。
上述の「山岡景以舎系図」にしても琵琶湖で海戦があったことしかわかりません。
しかし、逆にいえば、
無かったとはいえないのです!(笑)
琵琶湖を泳ぎ渡った、まではないとしても、
僅かな手勢で獅子奮迅の戦いを見せ、琵琶湖沿いを猛進する左馬之助から、伝説が生まれたのではないでしょうか。
はい、というわけで漸く曲解説
歌詞は以下です。葛生桂雨作詞
武士(もののふ)の八十氏川に結渡す
義の柵(しがらみ)は越えかねて
主と頼める人のため
命も名をも陣頭の
馬蹄(ばてい)の塵と蹴り捨てし
弓矢の道こそ、哀れなれ
ここに明智左馬之助、光俊は
羽柴の勢に追い立てられ
最後の戦せんものと
三百余騎を引具して、大津の方へと打たせ行く
命惜しまぬ人々は、我に続けと大音に
味方の勇気励まして、飛電の如く突きかかる
一萬余騎の敵軍も、この勢いに堪ええず 算を乱して崩れけり
日本一の湖を、明智左馬之助光俊が、
乗切る様を見おいてぞ
武辺の語りに遺せかし、
いざやと手綱かいぐりて一鞭あつれば忽ちに
駒はさながら飛ぶ如く
ざんぶと波に 打ち入ったり
さしもに広き湖を
真一文字に乗切る様
さすがの敵も茫然と
鳴りを静めて見送りけり
少しずつ見ていきますと、
まずは「謡い出し」
琵琶では曲の始まりを「謡い出し」といって
合戦の描写の前のエピローグの部分があります。
「武士(もののふ)の八十氏川に結渡す」
一行目からよくわかりませんね笑。
八十氏川という川は無いので、それをみてみますと
これは実は下敷きになる句がありまして、
柿本人麻呂
「もののふの 八十氏川の 網代木あじろきに いさよふ波の ゆくへ知らずも 」
・宇治川の網代木にしばし滞りいさよう波、この波はいったい何処へ流れて行くので
あろうか。(いく末が分からないのは、わが身も同じだが。)
物部(もののふ)は宮中の武官、それが八十の枕詞となり、
沢山の武官という意味から八十氏となり、その氏から繋いで宇治川を連想させる、という
高等テクニックですね。
湖水乗切りの作詞にあたっては、
当然ながら合戦の舞台となった瀬田橋・瀬田川
これが京都にいくと名前が変わって宇治川となっていきます。
ちなみにこれが大阪にいくと淀川になります。
これから瀬田川で繰り広げられる沢山の武士たちを表現する
・武士の八十氏川
この7文字で完結させる。素敵ですね。
「義の柵(しがらみ)は越えかねて」
字義では、「忠義の精神から逃れることはできない」というところ。
しかし、ここは語るうえでは少し解釈を加えさせて頂きます。
左馬之助と光秀は、
一説によると光秀の娘倫(さと)の婿であるとも、光秀の従弟であるとも、
そして明智の姓を賜った純粋な家臣であるとも言われます。
いずれにおいても、左馬之助は光秀が浪人となって諸国を浮浪していた時代から、
朝倉家で客分となっていた時代から共に過ごしてきた存在、
忠義の心はもちろんありますが、そのような強い縁があるのです。
光秀殿は山﨑合戦から無事逃げ延びているかもしれない、いや無事であってほしい、いや絶対無事である、と心に決めながら、
「自らの物語」としても、坂本城に向かっていたと思うのです。
続きます。
「主と頼める人のため命も名をも陣頭の
馬蹄(ばてい)の塵と蹴り捨てし
弓矢の道こそ、哀れなれ」
訳
主人と信頼していた人のために、
命も名声も馬蹄(馬の蹄)の塵と思って蹴り捨てる。
弓矢の道(武士の道)こそ、趣深いものである。
ここも、字義では忠誠心が押し出されていますが、
上述の主従を越えた縁の想いと共に、
左馬之助は坂本城に妻子が残る。家臣団もいる。
だからこそ自分は坂本城に辿り着かねばならない。という強い意志を謳いたいと思います。
「ここに明智左馬之助、光俊は羽柴の勢に追い立てられ
最後の戦(いくさ)せんものと三百余騎を引具して、大津の方へと打たせ行く」
ここは主人公の紹介です。
琵琶は必ずココがありまして、いつどこで誰が何をした、という句があります。
これが他の歌の音楽とは違うところですね。
講談のように、ト書きやナレーションのように客観的な目線の語りがあります。
ちなみに明智左馬之助は史実としては秀満ですが、
光春や光俊として語られることも多いです。
真田幸村が本当は真田信繁であるような感じです。
湖水での戦いは羽柴勢の堀秀政軍との戦い
300余騎とありますが、琵琶歌も講談も「盛る」ので笑
おそらくはもっと多かったんではないかと。
この「最後の戦」というところも趣深く、
本当なら、坂本城にいったあと、諸国からの参集を募って
もう一戦秀吉と勝負する、ということも考えられたかもしれませんし、
籠城戦があったかもしれません。
が、「最後」だと思っていた。最後だという覚悟で向かったところでしょう。
実際には左馬之助は籠城戦はせずに、逃げられる家臣は逃げさせて
宝物類も引き渡して自害するので、実際にこの戦いが最後となりました。
坂本城のある大津へ向かう。
ここで琵琶の手(弾き方)も徐々に激しくなっていきます。
3拍子をベースにして、変拍子が入ってきて、
序盤戦を表現しています。
「命惜しまぬ人々は、我に続けと大音に
味方の勇気励まして、飛電の如く突きかかる」
ここが歌としては一番の大きいところ(ffですね)。
左馬之助が配下を鼓舞するところ。
多勢に無勢ですが、精鋭の左馬之助配下で堀秀政軍のど真ん中を突き進むイメージです。
「一萬余騎の敵軍も、この勢いに堪ええず 算を乱して崩れけり」
ここは、少し趣を変えて
私は堀秀政の主観で語っています。
堀秀政は後に小牧長久手の戦いの功績で十八万石を得る大名、
対する左馬之助は、生え抜きではありますが光秀の側近にすぎない。
この格の違いから、「天晴れ左馬之助」という心持ちであったのではないか。
このあと、琵琶の「くずれ」
ギターソロのような部分ですね。少し長めの琵琶のインストの部分があります。
ここでは、是非とも獅子奮迅の活躍をする左馬之助軍をイメージして頂きたい。
堀秀政軍を、モーゼのように突き進む、
しかし、だんだんと包囲網は狭まっていきます。
琵琶湖沿いを走り抜けるルートも狭まってくる。
そんな苦しさも思い描いて頂けたら。
「日本一の湖を、明智左馬之助光俊が、乗切る様を見おいてぞ
武辺の語りに遺せかし、
いざやと手綱かいぐりて一鞭あつれば忽ちに駒はさながら飛ぶ如く
ざんぶと波に 打ち入ったり」
ここがいよいよと切羽詰まったところです。
湖岸を走るルートが潰され、窮地に立たされる。
しかし、ここで唯一、琵琶湖を泳ぎ渡るルートに活路を見出す。
講談などでは、この段階で左馬之助はただ一人となっています。
そうしないと、自分だけ琵琶湖わたったことになるので笑。
単騎で湖に入っていく
おそらくは入水だと思ったんではないでしょうか。
または、天晴れ左馬之助と思ったか。
那須与一が矢を射るときに平家側が攻撃しなかったように
左馬之助が湖水を渡ることができなのも、そんな合戦の美学があったからなのではないか、と想像します。
「武辺の語りに遺せかし」
後々の戦の語り草にしてくれ、という左馬之助のセリフへのアンサーかもしれません。
「ざんぶと」
ここで琵琶は、撥を弦に押し当てて
スリ上げる音が入ります。琵琶はこうやって撥を腹に叩いたり、弦をこすったりと
物語の効果音として使うこともあります。
ここから、琵琶の手は
シャララーンとゆったりとしたリズムを刻みます。
これは左馬之助と愛馬である大鹿毛(おおかげ)が悠然と泳いでいる姿を表現しています。
「さしもに広き湖を真一文字に乗切る様
さすがの敵も茫然と鳴りを静めて見送りけり」
ここも、茫然としつつも、武士(もののふ)の美学として静観する様が見られますね。
左馬之助が主人公の伝説ではありますが、堀秀政のカッコよさもあると思うのです。
おそらくは秀吉からは左馬之助を討ち取れなかったことを怒られたでしょうが笑、
それでも、この伝説を目の当たりにできたことはよかったのではないか。
ちなみにこの後は、明智秀満は坂本城にたどりつきまして、
光秀の敗死を知ります。その落胆はいかほどか。
頼みの綱である細川藤考・筒井順慶からも見限られ、
いよいよ秀吉側に参集する軍勢は日増しに多くなる。
ここで左馬之助は籠城戦で味方を損傷することなく、
女性や子ども、家臣は逃げられるものは逃げられるように手配をして、
宝物も目録つけて引き渡して、
自分は家族諸共に自害して(ここは悲しいところですが、時代背景からは致し方がないんでしょう)。
武将としても見事だったといわれています。
だからこそ、今の今でもヒーローとして語り継がれているんでしょうか。
そんな左馬之助の湖水渡り伝説、是非ともお楽しみください!!